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体力過剰につき。【平木柳太郎ものがたりvol.2】

「0歳からの体操教室」

きっと33年前、こんなチラシが届いたのでしょう。

母親は迷わず、我が子を体操教室に入会させました。

産まれた時から体が大きく、暴れん坊だった長男を、
少しでも夜、眠るように、少しでも日中に体力を使うように、

私のスポーツ歴が刻まれ始めました。

・・・

続いて、3歳か4歳の頃。

スイミングスクール(水泳)に入りました。
残念ながら、今では泳げません。


さらに5歳。

同じ建物で開催されていた空手教室に入ります。
小学校2年時まで続けて、最後は紫帯だったそうです。

・・・

ここまでは記憶にないのですが、


確かに写真が残っていたり、
同じ習い事をしていた友達がいたりと、

とにかく運動させておく教育方針でした。


小学校では、2年生からスポーツ少年団サッカー部に入部。
同じクラスの板本君から誘われて入ったことを覚えています。

小学校3年生から6年生まで、同部の主将(キャプテン)を4年間務めました。


幼児期から体操、水泳、空手で鍛えられてきた体は極めて丈夫で、
当たり負けしない体で、固定ポジションはスイーパー(ディフェンダー)ながら、

長距離でのフリーキックで得点をあげ、
またストッパーの杉山君と連携した鉄壁の守備によって、
自陣キーパーが「ひま!」と言うほどでした。

ディフェンダーながら、数多くのMVPを獲得したことが、
自宅に残っている沢山の盾から思い出されます。

小学校6年生時には、
強豪校の立山中央小学校の県代表チームに、
外部チームからの合流メンバーとして加わり、
代表のディフェンダーとしても出場しています。

・・・

持ち前の頑丈な体に目をつけられて、
小学校4年生からは、藤ノ木小学校の相撲部にも加入しています。

豊村君という絶対的なエース(まさしく相撲体型)に、
スピードと筋力で補う私が二枚看板となり、

当時、富山縣護國神社の土俵などで開催された大会で活躍しました。

※護國神社の大会記録に名前が残ってました。

5年生、6年生の時には石川県珠洲市での北信越大会にも出場し、
個人か団体か忘れましたが、ベスト8まで進むことができました。

思い出の土俵、藤ノ木小学校には残っていませんが。。

・・・

そんなスポーツ漬けの毎日が原因なのか分かりませんが、
小学校5年時に、オスグッド・シュラッター病が発症しました。

両膝の下あたりが痛み、徐々に固くなっていく病気です。

痛みが出たら、運動を控えることで治まるそうですが、
上記の通り、とても運動から離れる環境ではなかったため、

そのままサポーターをつけたり、ストレッチで和らげたりしながら続けて、
今では両膝とも、尖った状態で出っ張りになっています。

そのため長時間の正座が難しくなりました。

・・・

オスグッド・シュラッター病を理由にして、
中学校に入り、サッカーから離れることを決めました。

小学生時代の素行に多少の問題があったため、
中学校では生徒指導の池淵先生にマークされたようで、

たどり着いた新しいステージは、バレーボール部。


ネットでオスグッド・シュラッター病を調べると、
「10~15歳の成長期の子供が、
 跳躍やボールをけるスポーツをし過ぎると、発生します。」

とあるので、今思うと絶望的な選択でした。


が、当時は「大丈夫、手を使うスポーツだから」という理由で、
全くバレーボールについて知らなかった私は、入部しちゃいました。

そこから3年間、土日の休みは、ほぼ全てバレーボールに捧げ、
さらに2年生の後半からは、朝練も始まりました。

私たちの学年は、小学校時にサッカー部にいたメンバーが、
レギュラー含めてバレーボール部に入っていたので、

3年生時には、富山県ナンバーワンの強豪チームになっていました。

県大会で優勝し、県内に敵なし、とは言いませんが、
強豪の桜井中学校や、堀川中学校、山室中学校などと競い合い、
日頃の練習は死ぬほどキツいけど、勝つために努力する楽しみを知りました。

しかしながら、北信越大会ではボロ負けしました。

井の中の蛙大海を知らず、
とは、この事かなと感じたことを思い出します。

余談ですが、石川県の野田中学校には、
のちに全日本代表エースも務めた越川優選手がいましたが、

当時は、ただ身長が高いだけで、それほど脅威ではありませんでした。
(という、負け惜しみを言うことしかできません。)

・・・

我がスポーツ人生においてピークとなったのは、
中学校3年生時の、富山県選抜チームでの活動でした。

中学校2年生時にも、同選抜に「将来の勉強」として選出され、
補欠メンバーとして大阪での大会をサポートしていました。

「来年は、レギュラーで出場する!」という決意とともに。


翌年、中学校3年生となった私は、目標の通り、
富山県選抜チームの主将、かつエースアタッカーとして、
全国都道府県対抗中学バレーボール大会(※)に出場しました。

※現JOCジュニアオリンピックカップ、
 当時アクエリアス・カップ、旧さわやか杯


当時の資料を見ると、
各都道府県エースアタッカーの平均身長は180cm超で、
当時172cmだった私は、日本一小さなエースアタッカーでした。

それでも中学3年間を競い合った裏エース徳道君、
セッター小関君、センター長谷君、ライト北川君、リベロ細川君らと共に、

スピードバレーで勝負して、決勝リーグへ進むことができました。

決勝トーナメント戦では破れましたが、全国ベスト16の好成績で、
中学3年間を捧げたバレーボールは、有終の美を飾ることとなりました。


ちなみに同大会で選手宣誓をした女子は、大山加奈さん。
真横を通った時、人生で初めて「女性を見上げる」経験となりました。

同大会は、12月に開催されることもあり、
一般的には中学3年生にとって受験期となっていて、
験勉強の妨げになることから、選抜チーム入りを断る選手もいました。

一方、選抜チーム入りした選手には、
強豪高校への推薦入試というカードが手に入ることになります。

有り難いことに、私にも県内2校からスカウトの声がかかりました。

しかも一校は「授業料、部活費、すべて学校が負担する全額免除」という、
中学生ながらに心揺れる提案だと聞かされました。

ここがバレーボール人生を続けるか、
そうではない道を進むかの分岐点でした。

私は、恩師の池淵先生と相談した結果、
「バレーボール人生ではない人生」を選択しました。

現実的に、高校バレーで日本一を目指せる身長でもないこと、
また、勉強しないと試合に出さないと厳しく指導していただいたお陰で、
勉学においても高校の選択を行えたことからの決断でした。

高校でも特殊な形でバレーボールを続けたのですが、
そこは、また別の機会に書き綴ります。

・・・

自分自身のスポーツ歴を振り返ってみるのは面白いものですね。

幼少時からスポーツ漬けにしてくれた、私の両親はと言えば・・・

父親は、砺波市の庄西中学、高岡市の高岡高校の野球部で、
強肩を誇っていたようで、子どもの頃にキャッチボールしてもらいました。

母親は、砺波市の出町中学校でバスケットボール部に所属し、
なんと全中制覇、つまり日本一の栄冠を獲得しています。

父親は身長174cm、母親は身長172cmなので、
運動神経と恵まれた体格は、両親のお陰です。


いま、子育てをする立場となって、
自分の子ども達が、どんなスポーツに汗を流していくか、

私の両親が用意してくれたように、
多くのスポーツに触れるキッカケを作っていきます。